富裕な地主の家庭に生まれたミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ

(Michail Ivanovitch Glinka、1804年-1857年)は、

ロシア国民楽派の基礎を作った作曲家で、その後、

グリンカの遺志を継いだ「ロシア5人組」によって「ロシア国民楽派」が発展しました。

 

近代ロシア国民音楽の父と呼ばれたグリンカは、地主の父の息子として、

ロシアのユモレンスク州で生まれ、少年時代を生地の村で過ごしました。

近くに住んでいた叔父が、農奴で作った小編成の吹奏楽団をもっていて、

グリンカの家の催しごとの時などには、この楽団がやってきて、

ロシア民謡の編曲などを演奏しました。

少年時代に、こうした民謡に親しんだことが、やがて彼を国民音楽の創造に

向かわせた第一歩であっただろうと、後にグリンカは自叙伝の中で回想しています。

 

グリンカは、ロシア国民楽派の祖として知られ、

また19世紀の東ヨーロッパにおける国民主義音楽の先駆的存在でもありました。

彼は早くから音楽の勉強をしていましたが、父の意志により、運輸省に勤務しました。

その後、もともと身体の弱かったグリンカは26歳の時に体調を崩し、

勤めていた運輸関係の公務員を退職し、音楽を学ぶために転地療養を兼ねて

イタリアに向かいました。

 

グリンカは1830年から4年間、イタリアで過ごしました。

ここで、メンデルスゾーンやベルリオーズに会い、またイタリアのオペラ作曲家

ベリーニやドニゼッティとも知り合い、大いに刺激を受けました。

この時期に書かれたのが「弦楽四重奏曲ヘ長調」で、古典的な形式による作品ですが、

第2楽章には、この時期に研究を重ねたイタリア歌劇からの影響がみられます。

 

イタリア留学中の1832年に完成した「悲愴三重奏曲」は

クラリネット、ファゴット、ピアノのために書かれています。

イタリア的な旋律の美しさと、ロシア的な雰囲気を讃えた作品で、

第1楽章の第1主題でクラリネットが悲哀を帯びたメロディをしみじみと歌っています。

 

グリンカは、ミラノで作曲を学び、イタリアの進歩的な芸術や音楽、

とりわけ歌劇(オペラ)に感激し、オペラ作曲家を志します。

帰国したグリンカは、1836年に「皇帝に捧げた命」を発表し、聴衆の大好評を得ました。

 

皇帝に捧げた命 : 歌劇「イワン・スサーニン」

国民オペラの創始者でもある、グリンカの最初の作品となったのが

歌劇「イワン・スサーニン」です。

 

グリンカ以前の歌劇を中心とした芸術音楽は、イタリアの作曲家のものか、

イタリア風の手法で作曲したロシア人の作曲家のものしかありませんでした。

そこで、彼は基本的にはイタリア歌劇の形式を用い、

ロシア民謡の特色の濃い旋律によって作曲したのでした。

また、同じスラブ民族であるポーランド人の音楽要素も取り入れていて、

ロシアとポーランドの民族音楽を対比させ、効果的に劇の進行をさせています。

 

「イワン・スサーニン」は、1836年11月27日に

ペテルブルグの宮廷歌劇場で初演されました。

その時ニコライ一世の命により、題名を「皇帝に捧げた命」と改めさせられましたが、

ソビエト政権になってからは「イワン・スサーニン」の名に復しました。

 

1613年、ロマノフ王朝成立期の動乱時代のヴォルガ河に沿った町

コストロム近くのドムニン村とモスクワをを舞台に、物語りは展開されます。

登場人物は、皇帝の命を救うためポーランド兵に殺されるイワン・スサーニンと

娘のアントニーダ、許婚、養子の4人で、序曲と第4幕、エピローグで構成された作品です。

 

 

戦いの合唱「わが祖国ロシア」 で幕があがり、第4幕で、殺されるスサーニンが

悲痛な思いで歌う「さし昇る私の太陽よ」は、有名なアリアとされています。

 

ロシア国民音楽の父 : 歌劇「ルスランとリュドミラ」

その後グリンカは1842年、オペラの第2作目となる

「ルスランとリュドミラ」を発表しました。

 

歌劇「ルスランとリュドミラ」は、題材をロシアの民話に採り、

ロシアの民謡風な音楽を用いた点で注目されました。

『ルスランとリュドミラ』は、ミハイル・グリンカが1837年から1842年にかけて

作曲した、5幕8場からなるメルヘン・オペラです。

 

 

ロシア語の台本は、アレクサンドル・プーシキンの1820年の同名の詩に基づき、

ヴァレリアン・シルコフとニェストル・クコリニク、N.A.マルケヴィチらの共作によるもので、

台本作者としてプーシキン本人も候補に上がってはいましたが、

決闘の末の不慮の死により、その計画は叶わぬものとなりました。

 

初演は1842年12月9日(ロシア旧暦で11月27日)に

サンクトペテルブルクのボリショイ・カーメンヌイ劇場で行われました。

ここは、現在はサンクトペテルブルク音楽院の敷地です。

 

物語(あらすじ)は ― キエフ大公国のスヴェトザーリ大公の娘である

リュドミラ姫と騎士ルスランの婚礼の宴席の途中、魔術師・チェルノモールが現われ、

リュドミラをさらっていきます。大公は、ルスラン、およびその場にいた若者ら

(やはり姫に恋している)に、娘を無事に取り戻した者に娘を与えると宣言します。

そのため、ルスランを含む若者3人(元の物語では4人)が助けに行くことに。

最終的に、3人のうちのルスランが、魔術や誘惑、他の若者の妨害などを

切りぬけ、リュドミラ姫を連れて帰り、2人は無事に結ばれる ― というお話です。

 

 

有名な序曲は、明快快活で変化が多く、ロシア的地方色も豊かで、

当時としてはめずらしく6全音音階がたくみに用いられている点で注目されました。

 

民族的素材 : 幻想曲「カマリンスカヤ」(婚礼の歌と踊り歌の主題による幻想曲)

「ロシア国民音楽の父」といわれたグリンカは、国民オペラの創始者でもあり、

32歳のときに初演された「皇帝に捧げた命」は大成功をおさめました。

 

彼は、1845年から47年にかけてスペイン各地を旅行し、

独特なスペイン民族音楽を収集して歩いたそうです。

その成果として、スペインの民族音楽を用いた管弦楽曲の傑作が生まれ、

自信を得た彼は、自国ロシアの民族的素材による

交響管弦楽曲の創造を志して、「カマリンスカヤ」を創りました。

はじめの曲名は「婚礼の歌と踊り歌」でしたが、後に「カマリンスカヤ」と改名しました。

 

― そのころ私は偶然のことから田舎で耳にした婚礼の歌「高い山から」と、

流行していた踊り歌「カマリンスカヤ」との間に非常な類似のあることを発見した。

すると、にわかに私の想像が働きだし、ピアノ曲の代わりに管弦楽用の

「婚礼の歌と踊り歌」を書き上げた ― と回想録の中で述べています。

 

「カマリンスカヤ」とは、もともと2拍子の短い7小節の旋律を反復する、

ロシア農民の民族群舞の1つですが、民族舞曲中小節数が奇数で終わる

唯一のものでもあります。 ロシア民謡のもつ独特な性格を失うことなく、

これを管弦楽曲の素材として使うということは、イタリア風音楽一辺倒であった

当時のロシア楽壇では、まだ誰も成功していないことでした。

 

 

この曲の歴史的価値は高く評価されていますが、リムスキー=コルサコフは

― グリンカは「カマリンスカヤ」によってロシア民謡の旋律の交響楽的扱い方を

子孫にしめしてくれた ― といい、チャイコフスキーもまた、

― 樫の大木が1つの実から生まれるように「カマリンスカヤ」には、

あらゆるロシア音楽の流派が含まれている ― と述べています。

 

グリンカは、パリ、スペイン、ポルトガルなどで作曲を続けましたが、

47歳の時に母親の死にあい、もともと身体の弱かった彼はその後体調がすぐれず、

対位法を学ぶために訪れていた滞在先のベルリンにて57歳で亡くなっています。