ヒストリカルダンスとルイ14世

1643年、「太陽王」と呼ばれ、フランスの絶対君主制を確立した

ルイ14世が、5歳でフランス国王に即位した際には、

数時間にも及ぶ豪華絢爛なバレエが催され、ルイ14世自らが出演しました。

 

当時のバレエはもともとイタリアに起源を持つもので、

貴族たちは身に付けていなくてはならない素養でした。

ルイ14世はバレエに熱中し、1653年15歳の時に

『夜のバレエ』で本格的に舞台デビューしました。

 

また、よりバレエの質を上げようと

1661年に王立舞踏アカデミーを創立し、

ルイ14世の舞踏教師ピエール・ボーシャンによって

ポジションが定められ、舞踏符が確立されるなど、

バレエがダンスとして体系づけられたのもこの頃です。

 

外側180度に開いた足 ― アン・デオールの姿勢が

バレエの基本となったのは、観客と対するという上演形態ができて、

足の動きをよく見せられるように出来上がったと言われています。

 

 

 

4. フランス王立舞踏アカデミー

 

1661年、ルイ14世は、パリに王立舞踏アカデミー

(現在のパリオペラ座、世界初のバレエ学校)の設立を命じます。

王立専門書には、特権的なクラスでの良いマナー、

軍における良い挙動に対しての教育を促進するよう、

アカデミーへの召集を呼びかけると書かれています。

 

この設立の先頭に立ったのは、

ルイ14世が任命した13人の最高の教師達でした。

 

王立舞踏アカデミーの課題は、

それぞれの踊りで厳しく形を創ることと、

全ての実技指導のために育て上げて法的効力を付与し、

踊りの存在をより完全なものにして、新しい踊りを演ずることでした。

 

王立舞踏アカデミーは、舞踊教師の知識を確かめてジプロマを授与し、

夜会を催したり、あらゆる手をつくして舞踊芸術の普及に援助を与えました。

 

新しい踊り、新しい動作を、アカデミーの活動家は、

独自の道を歩んで発展し続けていた民族舞踊から、よく借用していました。

 

アカデミーはフランスの踊りの文化の発展に多大なる貢献を捧げたのです。

特に最高潮に達したのは、著名なバレエ振付家で王の舞踊教師であった

ピエール・ボシャンが、アカデミーの監督になった時です。

 

多くのアカデミーのメンバーは、当時の舞踊理論を書きとめ始めました。

A.フイエ(『舞踊術、あるいは記号、絵、記号による舞踊記述法』出版/

師ボシャンの確立した五つのポジションが記されている最初のバレエ教本。)、

J.タブロ、L.ペクル、P.ラモーなどが有名です。

 

また、ルイ14世の時代に舞踏会は、並はずれて輝かしいものに発展しました。

それは、驚くほど豪華な衣装とパレードのような舞台装置を使い、

宮廷のエチケットの規則も特に厳しく守られました。

 

王立宮殿で好まれた“メヌエット”も、ルイ14世の時代に踊り始めました。

宮廷のエチケットは、踊りの形とポーズに独自の跡をつけました。

“メヌエット”では、美しい流儀、厳かで優雅な動作を見せることを目指しました。

 

貴族階級は、踊りの中によく出てくる、

お辞儀とレベランスを細かく入念に学びました。

柔らかくふくらんだ踊り手の服装は、

ゆっくりとした動作に必要不可欠でした。

 

男性の動作は、慇懃でうやうやしい性質と、

女性への深い敬意を表現していました。

 

パリ王立舞踊アカデミーの監督であったボシャン(ルイ14世の舞踊教師)は、

アルファベットの「S」の図式を提唱しました。

 

タウベルトは、自分の業績の中で「8の字」、「2の形」、

アルファベットの「S」と「Z」の図式を記載しています。

 

有名なダンサーであったペクルも舞踊アカデミーの監督となりましたが、

アルファベットの「Z」の図式を主張しました。

そして段々と少しずつ、その図式は確立されていきました。

 

 

 

5.16-19世紀の西欧とロシア

 

舞踊芸術は、ずっと以前からフランスの用語で確立されていました。

その理由は、舞踊についての文献にあります。

 

まず始めにあげる必要があるのが、

トワノ・アルボ(ジュアン・タルボ)の著作、

ヨーロッパ史上初めて音楽とダンスのステップを細かく記述した

『オルケゾグラフィ』(Orchésographie)です。

 

たくさんの舞踊図式、ポーズと名称はアルボの提案であり、

しっかりとたくさんの国々に舞踏会の舞踊振付実習として浸透していきました。

 

この著作における舞踏会の振付の大部分は、

貴族のサロンのレパートリーとして定着しました。

また、民族舞踊は口頭で伝えられていきました。

 

16世紀に出版されたアルボ(オルケゾグラフィ)の本には、

ほとんど全ての踊りと、それらの多数の変形した種類が記載されています。

その価値は、各都市の踊りのレパートリーと、同様に、

全ての踊りの源となった“ブランル”も記載してあることです。

 

18世紀の著名なフランス・バレエの改革者である

ジャン=ジョルジュ・ノベールは、

『舞踏とバレエについての手紙』(Lettres sur la danse et les ballets)

の中で、バレエの振付家は、民族の余興から生まれた沢山の動作と

ポーズを、あらゆる民族のもとから借用することができると書いています。

 

アルボは著書の中で、詳細に、正確に書いているのは

16世紀後半の踊りだけではなく、もっと前の舞踊形式も書いています。

 

彼が書き留めているのは ―

①踊りの構成; ②様々なPas(パ:足の動き)と動作;

③演技・実技のやり方; ④衣装の性質  ― です。

 

のちに発展する宮廷舞踊と舞台舞踊の基本となる、

この彼の舞踊文献は人気を博しました。

 

初期の業績の一つとして、1416年に教育システムが叙述されたものが、

イタリア人のドミニクにより現れました。

1455年、アントニオ・コルナザノは舞踊についての本を出版しています。

また、マルガリータ・オーストリスカヤは、

『“バスダンス”の黄金の原稿(?)』という本を出版しています。

 

16の“バスダンス”のリストを出した

アントニオ・デ・アランが、その時代の踊りを解明していて、

カロゾとネグリも同じような内容の本を出しています。

それらの大部分は、作法のやり方と

レベランスのテクニックが記載されています。

 

イタリア人のカロゾは1581年に、

踊りや動作に関することだけではない本を書いています。

彼はレベランスを“大事なレベランス”、“小さいレベランス”、

“中くらいのレベランス”と分け、最後にジャンプを記載しました。

 

ラウリ、ラモー、マニイの著書は、多くの部分で“ガリヤルド”に割き、

新しい踊りの形式となった沢山の動作が記載されています。

 

18世紀、ラウリ・フイエ、ラモー、デゼは、

踊りの記録方法(舞踏符)を作り上げました。

彼らは図形を用いた記載方法を生み出し、別々に動作や構成を

書きとめるだけではなく、図に空間をもたせたのでした。

 

ロシアでは、18-19世紀にかけて、

人々は踊りへの興味をもち、舞踏会では、ペトロフスキー、

マクシム、チスチャーコフ、ガブリコフスキー、ツォルン等のように、

舞踊教本、独習書を出版することが人気となりました。

 

しかし、残念ながら彼らの多くは、その時代区分、舞踊形式の分類の中の

学習システムとしては存在していません。

 

『舞踊芸術と振付の文典』という本を作り出した

ツォルンでさえ、自らの教師経験から出たものでした。

彼の著書の中で一番価値のあるのは、教育手法についての部分です。

でも、踊りについては、18世紀と19世紀だけしか記載されていませんでした。

 

 


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