アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799‐1837)

(ロシア語:Александр Сергеевич Пушкин)

 

19世紀はじめのロシア文学「金の時代」を代表する詩人であると同時に

その後のゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフといたる

ロシア文学隆盛の原点となった人物です。

 

プーシキン以後のロシア文学はすべて

彼の仕事の継承と発展にすぎないとさえ言われています。

中でも平明簡潔な言葉でうたい上げた彼の詩は、

今なおロシア人の心の故郷として人々の胸に深く刻みつけられています。

 

プーシキンの死後、その作品の多くは

ロシアの作曲家たちによってオペラの原作に選ばれました。

その中には、グリンカの「ルスランとリュドミラ」、

チャイコフスキーの「エヴゲーニー・オネーギン」と「スペードの女王」、

ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノーフ」、

ダルゴムイジスキーの「石の客」、

リムスキー-コルサコフの「金の鶏の話」などがあります。

 

 

プーシキンは、ロマン主義を経て純粋にロシア的なリアリズムを拓き、

また独自のロシア語と芸術形式によってロシア精神と社会の間の姿をとらえ、

ヨーロッパ文学の模倣にすぎなかったロシア文学を

真に国民的な文学に高めた詩人、作家です。

 

ロシア近代文学の父、またロシア国民詩人でもあり、

古典的なロシア詩の詩作規準を確立し、

そのうえ19世紀ロシアにおける散文の絶大な発展の土台を築きました。

 

彼の作品は言語の華麗さ、簡潔さ、きびきびした点、

客観性などを特徴としていますが、その詩の翻訳が至難なため、

プーシキンは、ロシア文学に与えた影響に比べると、

世界文学には、さほどの影響を残しませんでした。

彼の文学は主題においてロマン主義、

スタイルと形式において古典主義であると言えます。

 

 

6.19世紀初頭の舞踊文化「プーシキンの時代」(19世紀20-30年代)

 

プーシキンは若い頃、文化人の生活の中に舞踏会がない事を

考えつきもしないほど、舞踏会とダンスをこよなく愛していました。

例えば、彼の詩の作品の中の長編小説「エヴゲーニー・オネーギン」など、

たくさんの主要人物は舞踏会で踊っています。

 

この時代の貴族は、フェンシングと同じように、ダンスを上手に踊れること、

フランス語をの知識、馬に乗れることが必要でした。

このような人々は、よくアルバムに詩を書いたり、

ワルツやマズルカの作品を作ったりすることが出来ました。

 

舞踏会の為のダンスは、

愛好家(例えば、グリバエードフの文学作品)と

プロフェッショナル(グリンカ等)が書いていました。

よく音楽の中に、適した決まった型を使い、

有名なモチーフ(テーマ)を変化させました。

 

舞踏会の美しさは、音楽だけにあるのではなく、

ふるまいの約束事の中のエチケットにもあります。

そして、事前に作られた衣装にもあります。

舞踏会は、この時代の社会生活の“リリック(叙情詩)の中心”となったのです。

 

舞踏会では、軽い恋の戯れもあり、コケティッシュで、

時にはそれが人々の運命を決めました。

 

舞踏会の伝統は、たくさんの劇場の物があり、

文化行動にはいくらかのアーティスト要素が求められました:

自分の感情を見せずに、上流社会の慣行に合う

会話ができることを必要とされました。

上流階級の人は、自分をコントロールできる能力が

なければならなかったのです。

 

舞踏会は、きわめて大きい監視所以外で、1年中催されていました。

夜の7-8時に、特別に厳かな貴族の舞踏会だけが始まります。

その他の舞踏会は、夜の9-10時頃から始まりましたが、

これは劇場での公演を観た後からでも来られるように配慮されたことでした。

 

そしてダンスは、明け方の3-5時まで続けられました。

上流階級の舞踏会で、特別な豪華さをみせることができたのは

皇帝の舞踏会です。舞踏会には、1500-1800もの客人達が集まりました。

 

その内に舞踏会は、裕福さと変わった趣向で競われるようになり、

特に家族は、未来の花嫁が育つよう努力しました。

 

また、上流階級の人々は同様に、

場を乱すために必要な規則も知っていなければなりませんでした。

例えば、舞踏会の始まる時間に到着するのは、間違いだったのです。

 

だんだんと、チケットを買って入れる

大衆的な舞踏会が人気となっていきました。

このような舞踏会には、様々な人々が集まりました。

 

サンクトペテルブルグには2つのダンス・クラブが開設されました。

そこにはマスクを付けた皇后も参加することができ、

そして若者達と一緒に、充分なほど自由に振舞うことができました。

このような仮面舞踏会が人気でした。

 

当時、とても人気のある職業は「舞踊振付師」で、

たくさんの社交ダンスの教科書がありました。

プーシキンとレフ・トルストイは、同じ舞踊振付師に踊りを習っています。

舞踊振付師は ― 例えば、皇帝の前へ出る時には何歩歩いていくことが必要か、

頭や手をどのように保って何処を見るか、レベランス(挨拶・お辞儀)は

どのくらいの深さで行うかなど、動作の型のエチケットを教えました。

 

ダンスを習い始めるのは8-9才で、

トレーニングは多年に渡る辛いものでした。

たくさんの舞踊振付師達の中で一番人気だったのは、例えば、

ダンサーとしてもバレエ振付家としても有名なジドロとその妻がいます。

 

貴族の子供達は全員、

上手に拍子を感じられるように、音楽を習うことが必須でした。

素敵なダンスを披露できる人は、どこの家でも大事なお客様でした。

 

プーシキンの幼少時代、舞踏会では ―

“ポロネーズ”、“ワルツ”、“コントルダンス”、“ポルカとギャロップ”、

“コティリオン”など、他のダンスが登場し、

すでに“メヌエット”と“ガボット”は踊られていませんでした。