ロシア5人組

 

バラキレフのもとに集い、バラキレフから音楽の指導を受けた

ボロディン、キュイ、ムソルグスキー、コルサコフたちは、

ヨーロッパの民族楽派のさきがけとして独自理論に基づき

作曲したロシアの作曲家で、彼らをロシア5人組と呼んでいます。

 

最初に注目を浴びたアレクサンドル・ボロディンは、

医大の教授でありながら交響誌「中央アジアの草原にて」などの作品を残しました。

 

もっともロシア的な作品を残したモデスト・ムソルグスキーは、

オペラ「ボリス・ゴドノフ」、交響誌「はげ山の一夜」を作曲しますが、

管弦楽理論に疎かったため、どちらもリムスキー・コルサコフによって加筆されています。

 

また、ピアノ組曲「展覧会の絵」は、

ラヴェルが管弦楽に編曲したことによって有名になりました。

 

5人組の中で最も作曲技術に秀でていたリムスキー・コルサコフは、

管弦楽曲「シェヘラザード」、交響詩「スペイン奇想曲」などを残しました。

 

なお、残りのふたり、ミリー・バラキレフとセザール・キュイは、

今日では殆ど顧みられていません。

 

 

19世紀後半ロシア国民楽派の音楽

 

後期ロマン派に当たる19世紀後半になると、

音楽先進国であるドイツのロマン派音楽が音楽後進国へ波及し、

その国々の民族的要素と融合した新しい音楽様式が生まれました。

 

この自国の民族主義を取り入れた新しい音楽様式を

「国民楽派」または「民族楽派」と呼びます。

 

ドイツロマン派音楽の波は、まずロシアへ押し寄せました。

グリンカは、先進国の音楽であるドイツロマン派音楽に、

自国の民族主義を加味した新しい音楽様式を生み出します。

 

グリンカの生み出したこの新しい音楽様式が、

ロシア国民楽派の基礎となり、その後ロシア5人組(ボロディン、

キュイ、バラキレフ、ムソルグスキー、コルサコフ)に受け継がれました。

 

その一方でロシア国民楽派とは別に、

ルービンシュテイン兄弟やチャイコフスキーらを代表とする

西欧的な音楽を目指した西欧派(モスクワで活動していたことから

モスクワ楽派とも呼ばれています)も樹立しています。

 

そして、ロシアの音楽はラフマニノフなどの活躍により近代音楽へと移行しました。

 

 

7.19世紀後半のロシアの舞踊文化

 

19世紀始めの舞踏会では、“ポロネーズ”、“マズルカ”、

“ワルツ”、“フランスのカドリール”と“ポルカ”など、

18世紀の難しいテクニックのないダンスが踊られていました。

 

それらは、一般大衆の民族のお祭りや仮面舞踏会などで踊られており、

その為、踊りの特質ではなく、踊りの構成が重要視されていました。

 

その後に流行したのは、フランスの“カドリール”、

イギリスの“ランシエ”、遊戯の“コティリオン”等の“コントルダンス”です。

 

簡単なものとなったダンスの“pas”は、

男性と女性のパートナー同士の厳密なポーズをもたらし、

腕のラインはより丸みを帯びて、

ダンスの型を正確に踊ることが求められるようになりました。

 

また、ダンスへの関心は、ダンス・クラスの設立をもたらし、

振付家は既存の踊りの型を組み合わせて、

たくさんのバリエーションを創作しました。

 

そこから、“パ・ド・トロア”(ビィチコフ)、パ・デ・グラス(イヴァーノフ)、

“ポンパドール”、“アリコース”、“ポルカ-マズルカ”、

“ワルツ-マズルカ”等の踊りができました。

 

民族舞踊の基本からロシアの社交ダンスでは、

“パ・デ・パチネール(Pas de patiner/スケート選手の踊りの意)”

(ヤコブリョフ、ガブリコフスキー)、

“クラコビャック(Krakowiak/ポーランドの踊り)”、

“パ・デスパーニ(Pas despagne/スペイン風のロシアのダンス)”

(ツォールマン)等が創られました。  

 

 

8.舞踊教師と教本 ― 20世紀20年代

 

舞踏会用ダンスに関する最初のソビエトの著作を執筆した

イワーノフスキーは、今までの日常の舞踊に関して

「王侯家族から都市住民まで、様々な社会的階層の様式や好みを反映している。

だから、社交ダンスの分類は難しい。」と書いています。

 

イワーノフスキーは1948年に

「16-19世紀の舞踏会用ダンス」という本を書いています。

彼は、様々な時代を厳密に年代順に並べ、

そのもっとも有名な模範を自分の著書に書いています。

「舞踏会用ダンスの基本の教授法」の章は、難しい作品の習得を促進しており、

また、この本の中には、生徒達に役立つように簡単な図式と絵が書いてあります。

 

マルガリータ・ワシーリエブナ・ワシーリエヴァ-ラジジェストヴェンスカヤ

 

1917年までバレエ学校では、別の教育として舞踏会用ダンスを学んでいましたが、

1930年、バレエ学校のレッスン・システムの中に、

歴史舞踊(ヒストリカルダンス)を導入する必要性が生じました。

 

進化し発展してきた歴史-宮廷舞踊(ヒストリカルダンス)を

生徒達が理解できるようにする為、レッスンを組み立てるプログラムが現れ、

ワシーリエヴァ-ラジジェストヴェンスカヤは厳密な実技の形式を創る事になりました。

 

ロシア舞台芸術大学-ギティスでは、ヒストリカルダンスの実技教授法を、

バレエ振付家とバレエ教師の為に、別々に創るという課題ができ、

バレエ舞踊の講座(現:バレエ舞踊振付学部)が1946年に新設されました。

 

ラジジェストヴェンスカヤと他教師達は、

ゼロから教育システムを作り上げていきました。

 

そして、ギティス大学でラジジェストヴェンスカヤは、

16-19世紀のヒストリカルダンスに関するユニークな本を書き上げました。

彼女は、とても良く言葉や歴史、芸術を知っていたので、

資料から自由自在に判断することができたのです。

 

また、独自のダンスの実例を作る時、彼女は自分の生徒達をつかって検討しました。

楽譜を確認するように、彼女は頻繁に、

著名な指揮者であったラジジェストヴェンスキーへ相談しました。

 

ラジジェストヴェンスカヤは本の中で、踊りを4つのグループに分けています。

1. 民族の日常の踊り:ブルゴーニュのブランル、ブレ、リゴドン等

2. 社交ダンスの踊りの構成と図式:ガリヤルド、ボルタ、コントルダンス等

3. 舞台形式のヒストリカルダンス:プティパのクラシックのメヌエット、ゴールスキーのエコセーズ等

4. 音楽と参考文献を基本とした、著者の創造した過去の時代のダンス