ロマノフ王朝

ロシアは13世紀から15世紀にかけて250年間、モンゴル帝国の支配下にありました(これを「タタールのくびき」と言います)。その後はオスマン・トルコ帝国に占領され、長い間東洋に支配され続けました。東洋の勢力を撃退した後にもポーランドやスウェーデンにモスクワを占領されましたが、いずれも冬将軍によりロシアは救われたのでした。

 

15世紀後半にはギリシャ正教の庇護の下に専制君主国を創設、その後1613年にはロマノフ王朝が開かれ、絶対君主であるツァーリ(皇帝)を戴くツァーリズムの国家として発展を遂げました。やがて、ロマノフ朝ロシアは不凍港確保のための「南下政策」をとり続け、東アジア大陸において支那を支配していた清国とネルチンスク条約を結んで両国の国境を定めることになります。

 

ロマノフ朝(ロマノフちょう)は、ロシア帝国の王朝です。16世紀末のフョードル・ニキーチチ・ロマノフの代に台頭してリューリク朝後の動乱期を制し、その息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位し、第18代ニコライ2世が廃位させられる1917年まで続きました。専制君主として君臨し、ピョートル1世(ピョートル大帝)の時代に西洋化・近代化を進めてヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配しました。その後、宮廷革命でドイツ人のエカチェリーナ2世が即位します。

 

☆ 歴史研究所 ― ロシア史 (ロシア古代~ロシア帝国/ソビエト連邦~ロシア連邦)

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ピョートル1世 (ロシア語:Пётр I Алексеевич)

モスクワ・ロシアのツァーリ、初代のロシア皇帝(インペラートル)。その歴史的存在感と2mを超す巨躯から、ピョートル大帝と称される。

 

1584年、ロシアで初めて皇帝(ツァーリ)を名乗ったイワン4世(雷帝)が亡くなると、ロシアでは貴族たちの権力争いや農民一揆がおこり、政情不安の状態が続きます。そして、ついには首都モスクワが隣国ポーランドに占拠されてしまいます。1613年、ロシア諸侯は力をあわせてモスクワからポーランド軍を追い払い、ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフを皇帝に選出します。

 

ミハイルの孫であるピョートル1世は、積極的にヨーロッパの文化や技術を導入してロシアの近代化につとめました。また、スウェーデンとバルト海の覇権を巡って北方戦争(1700~1721年)を繰り広げ、バルト海沿岸を獲得します。彼がフィンランド湾に注ぐネヴァ川(泥の川)の河口に建設したサンクト・ペテルブルグは、1712年以降、200年にわたってロマノフ王朝の帝都になりました。

 

ピョートル1世の下でロシアは大いに発展を遂げます。

ピョートル自身が外国人(ヨーロッパ人)達から数学や技術、機械や軍事・造船などの技術を学び、それを生かし、強制的にロシアのヨーロッパ化を進めたからです。

 

また、ピョートル1世はロシアの西欧化をすすめ、その一環として「ひげ」を切らせたという記述があります。

ロシア正教においてヒゲは神が与え給うたものとされ、男性の象徴とも言うべき扱いを受けていました。従ってヒゲを剃り落とすことは神の創造になる自然からの逸脱であり、一種の罪でもありました。中世ロシアにおいては聖職者のみならず、およそ男性として生まれた者は全て豊かなヒゲを蓄えていたのです。

この状況が劇的に変化したのはピョートル大帝の時代です。西欧をモデルとした近代化政策をとったピョートルにとって、教会を含めた社会の大部分が古臭い伝統の中に浸っていることはどうにも我慢のならないことでした。

1698年に帰国すると、西欧化改革の始まりを示すべく大貴族の髭を切らせ、また社会に対しては「ヒゲに税金をかけて」切るよう一般民衆にも強制しました。

ヒゲ税:ロシアのピョートル1世が制定。ヒゲにたいして課税(課税率は身分によって異なった)。ピョートルはロシアを欧州列強のような先進的国家にすることを目指しており、まずは国民・貴族の意識を変えるために、ロシアの風習の象徴である髭をなくそうと考えた。考え方としては、日本の断髪令と似ている。

 

その他、廷臣と役人にも西欧式正装を義務づけたほか、1700年にユリウス暦を導入しました。さらに1702年には宮廷改革に着手し、女性皇族が従っていた厳しい行動制限を撤廃して宮廷行事への出席を命じました。

 

 

エカテリーナ2世 (ロシア語: Екатерина II Алексеевна)

プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる女帝。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、その後、大帝(ヴェリーカヤ)と称される。

 

エカテリーナ2世は、ドイツの一貴族の娘でしたが、14歳の時にエリザベータ女帝の養子ピョートル3世に嫁ぎました。ゾフィーというドイツ名をロシア風にエカテリーナと改めた彼女は、ロシア正教に改宗し、ロシア語を学ぶなど、ロシア人になりきるために様々な努力をしました。

 

夫ピョートル3世はプロイセン国王フリードリヒ2世の信望者で、皇太子時代からエリザベータと対立するなどロシア貴族に不人気で、ロシアの習慣にも全く馴染もうとしませんでした。特に七年戦争ではロシア軍がプロイセン領内に侵攻し、フリードリヒ2世を追い詰めていたのに、ピョートル3世の即位によっていきなり和約を結んだことはロシアでは不評でした。

1762年7月、エカチェリーナ皇后は、愛人オルロフら近衛部隊やロシア正教会の支持を得て、在位6ヶ月のピョートルを幽閉すると、自ら女帝に即位しました。その1週間後、軟禁中のピョートルが監視の近衛兵に殺されてしまいます。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカテリーナ2世はこれを深く悼む」と発表されたといい、エカテリーナ2世は自身の関与を否定したが、真相は不明とされています。

 

エカテリーナ2世の時代、ロシアは西方ではポーランド分割によってベルラーシを獲得、南方ではオスマン・トルコを破ってピョートル1世以来の念願だったモルダヴィア、ワラキア、クリミアを獲得するなど大幅に領土を拡張しました。

 

国内では、エカテリーナ2世によって輝かしいロシア芸術・学問の土台が作られ、首都ペテルブルクはヨーロパ随一の華やかな都会になりました。彼女はロシアの近代化に務め、女子学習院や科学アカデミー、ボリショイ劇場を創設したり、多くの絵画や彫刻を収集してエルミタージュ美術館の基礎を築きました。

現在、イギリスの大英博物館やフランスのルーブル美術館と並べて評価される世界三代美術館の一つとされている、「エルミタージュ国立美術館」の原型となる冬宮や小エルミタージュは、「エルミタージュ」の原義が『隠れ家・隠棲の庵』にあるように皇帝個人の心を癒すプライベートなコレクションの空間として建設された歴史を持っています。

皇帝一族が寝起きする住居としての役割も果たしており、エカテリーナ2世の時代には彼女自身の私室を通らないとエルミタージュのコレクションを閲覧することは不可能な造りとなっていて、彼女自身や他国の王族、側近の重臣以外にはそのコレクションを目にする機会はありませんでした。

 

また、当時のロシア宮廷では君主の威厳と崇高さを演出する工夫が様々に試みられました。女帝は衣食住にわたって「エルミタージュ・エチケット」と呼ばれる礼儀作法を厳格に規定し、宮廷儀礼の形成に大きな影響を与えました。

その他、一個人としては、相談役にして科学アカデミー総裁であるダーシュコワ夫人が発行していた新聞に匿名でコラムや戯作、果ては戯曲や詩まで投稿しており、特に喜劇を好んだと言われています。

また、ロシアに漂着した伊勢の船頭・大黒屋光太夫が女帝に出会い、エカテリーナ2世号で帰国し、多くの下賜品とともに女帝の肖像画も持ち帰ったと言われています。