“ロシア軍艦ディアナ号” テレビ放送 9/10(土)

9月10日土曜日、7時から、TBS 『飛びだせ!科学くん』という

2時間番組のなかで、ディアナ号のことが放送されます。





ご存知のようにロシアの軍艦ディアナ号は幕末、

日本と条約を結ぶために来航し、

安政の東海地震に遭遇して大破、

最終的には駿河湾で沈んでしまうのですが、

昨年偶然、駿河湾で沈船らしきものが発見されました。

 

場所的にディアナ号かもしれないということで再探査が待たれていたのですが、

8月海洋研究開発機構(JAMSTEC)の協力でTBSが再探査いたしました。



その結果をディアナ号の歴史等の解説と共に10日に放送するということを聞きました。

 

探査の当日は現場の状況が悪く、所期の目的が果たせなかったようですが、

それにもかかわらずディアナ号に関することを広く知ってもらうために

長い時間を使ってテレビで放送するということです。

ディアナ号に関してこのようなことはかってなかったことですので、

お時間ありましたら、是非ご覧下さい。 

 

   

 

日露和親条約

1854年、ペリー艦隊が下田を去って4ヶ月後、ロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。

当時ロシアは、クリミヤ戦争で、その同盟国のイギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。

条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。

 

1854年11月第1回目の日露交渉が福泉寺において開かれ、双方の主張が述べられました。その後、第2回目の交渉を約束後、不運にも翌日(11/4)午前に大地震が発生し、大津波が下田をおそいました。(安政の大地震)

何度かの津波と引き潮により、ディアナ号は、42回も回転したと言われています。

プチャーチンは、ディアナ号が大破したにもかかわらず、乗員と医師を陸上に派遣し、下田の人々に対して、救助や医療の援助をおこなっていました。

この津波のため、ディアナ号は自力航行不能になり、西伊豆の戸田(へだ)へ修理のため曳航中、風と波により数百隻の救助活動もむなしく、ついに宮島村沖で沈没してしまいました。乗員約500人は全員救助され、戸田へ収容されました。

それでも12月21日には長楽寺で日露和親条約が締結されたのです。今でもこのときの津波で犠牲となった人達を供養する「つなみ塚」が稲田寺に残されています。

 

ディアナ号

プチャーチン提督の乗艦ディアナ号は、当時の帝政ロシアの最新鋭の軍艦(フリゲート)でした。長さ52メートル、2,000トンの木造帆装軍艦で、大砲52門を搭載、乗員500名、その艦首にはロマノフ王朝の権威を象徴する双頭の鷲(ワシ)の紋章が金色に輝いていました。

 

ディアナ号の修理に当たっては、搭載していた砲を下田に降ろし、後に幕府に譲渡されています。その後、函館要塞築城に際し、搬送設置されています。このうち4門は、函館戦争の際、回天に搭載され、官軍と交戦。沈没した回天より引き揚げられた砲は、函館と靖国神社に展示されています。

 

プチャーチン

1803~1883 ロシア海軍元帥・伯爵。ラクスマン・レザーノフに次ぐ第3回遣日使節。

 

1853年(嘉永6)旗艦パルラダ号ほか3隻の黒船を率いて長崎に来航、日露通商・国境制定の件で、幕府全権筒井政憲(まさのり)・川路聖謨(としあきら)らと会談を重ねました。

翌年ふたたび下田に来航、安政元年(1855)の地震・津波で旗艦ディアナ号が大破したのです。老中阿部正弘・韮山代官江川恒庵はロシア人の救難を命じ、日露両国の協力で伊豆西岸戸田(ヘだ)村において洋式帆船が建造されました。

同年12月に日露修好条約を結び、千島列島のウルップ島以北を露領、エトロフ島以南を日本領と定め、樺太島は国境を設けず日露共有の地と定めました。

安政5年(1858)にも下田に来航して日露修好通商条約を結び、清国とは天津条約を締結したのでした。

 

翌1859年に海軍大将に昇進。また日露国交・友好に貢献した功績によって明治14年(1881)日本政府から勲一等旭日章が贈られました。

アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったのに対し、ロシアのプチャーチンは「対話」に徹しました。

皇帝ニコライ一世から、「あくまで平和的手段」で「直接の話し合い」により友好の道を開けと、命令されていたのです。

 

また、下田で遭遇した、安政元年の地震・津波では、ディアナ号が大破していたにもかかわらず、漂流する日本人3名を助け、また、陸上へ医師団を派遣したことも注目に値します。

のちにプチャーチンは、遺言で、戸田村に百ルーブルを寄贈しました。(正確な換算はできませんが、当時の数百円、現在の感覚では数百万に相当すると思われます。)

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