ロシアのバレエは、皇帝アレクセイ・ミハイロヴィッチの時代に、

ヨーロッパ諸国と同じように宮廷芸術として登場しました。

最初のロシア・バレエは、バレエ「オルフェウスとエヴリディーケ」

(1673年モスクワ、音楽:G.シュッツ、バレエマスター:N.リム)

だといわれています。

 

1738年、サンクトペテルブルグにバレエ学校が設立されました

(現在のワガノワ・バレエ学校)。

 

バレエ学校のバレエマスター:J.B.ランデとA.リナルディは、

アンナ・イオアンノブナの宮殿にあるエルミタージュ劇場で、

オペラ「愛と憎しみの力」(1736年)の中のバレエ・ディヴェルティスメントを

振付しました。そして、のちにこの二人は宮廷振付家となります。

 

当時のバレエマスター、作曲家や舞台デザインを担当していたのは

オーストラリア人とイタリア人でしたので、1760年からロシア・バレエは、

ヨーロッパの劇場に沿って古典主義へと発展していきました。

figure1760
 

1759年~1764年までロシアでは、神話を題材にしたバレエ作品を創った

(A.P.スマローコフの悲劇セミーラより:1772年)

有名なバレエマスターであるF.ヒルファーディング(1710-1768)と

G.アンジョリーニ(1731-1803)がリーダーを務めていました。

 

1773年、モスクワにもバレエ学校が設立されました ―

モスクワの孤児院にバレエ学部ができ、現在の

モスクワ・バレエ・アカデミー(ボリショイバレエ学校)の基礎となりました。




◆ ボリショイバレエ学校(МГАХ)オフィシャルホームページ

◆ Bolishoi Ballet Academy (モスクワ・バレエ・アカデミー)のブログ

バレエ学校の動画や写真が多く、見るだけでも勉強になります☆






おおやけのものとして設立されたモスクワのバレエは

ペテルブルグよりも、より大きな独立性をもっていました。

当時、サンクトペテルブルグのバレエは、より宮廷らしく厳密で

アカデミックな芸術でしたが、モスクワのバレエは、より民主的で詩的な、

喜劇とバレエのジャンルに取り組んでいました

(「クリスマスの楽しみ」G.アンジョリーニ:1767年)。

その後も、レニングラード・バレエは現在でも

古典的な厳格さ、アカデミズム、よどみないダンス等;

モスクワは ― 力強さ、強いジャンプ、がっちりとした美しい体格等、

様々な違いをもって残されていきました。

 

劇作家スマローコフは、モスクワに独立した国立劇場を設立する権限を

求めていましたが、エカチェリーナⅡ世は同じ年にP.V.ウルーソフ公と

彼の仲間のイギリス人M.G.メドックスに劇場設立の独占権を与えました。

1776年からM.G.メドックスとP.V.ウルーソフ公によって主催された

レパートリー(ペトロフスキー劇場)は、モスクワのボリショイ劇場の

主要な系統となりました。M.G.メドックスの劇団は、モスクワ大学劇場

N.S.チトフ(1766-1769)の劇団の基礎とも結びついています。

 

1780年12月30日、ペトロフスキー劇場のこけら落としでは、

オーストラリア人のバレエマスターL.パラジスと、ロシアに来た

F.ヒルファーディングの団と共に、バレエ-パントマイム

「魔法のベンチ(寝台兼用の長椅子)」を創作・披露しました。

 

18世紀(1700~1800年)のバレエの上演形態は:

・オペラの一場面としてバレエが挿入される

・オペラの間奏曲として、全く無関係のバレエが幕間等に上演される

・オペラで上演したものを、その後同じ舞台装置でバレエを表現する

・ディヴェルティスマン形式で様々なバレエの小作品を集めたコンサートを上演

そして、18世紀後半から始まり19世紀には主流となる、

多幕物の独立したバレエ劇でした。

 

19世紀までのバレエは、文学やおとぎ話などを原作として物語を

表現するものでしたが、言葉のない踊りは具体的な状況を説明する力が

乏しかった為、説明の為のマイムで物語を進めながら踊りを見せる、

長い時間を要する多幕物の作品が一般的でした。

 

このような物語バレエは、19世紀前半のロマン主義の時代には

ドラマ性が重視されたために、踊りが感情を表現しながらマイムと融合し、

断絶の少ない場面の流れを作り出しました。

ゲリツェル
 

19世紀後半、踊りの美しいフォームを生み出す天才マリウス・プティパが

ロシアにバレエ王国を築き上げた時代には、物語バレエの中でも

踊りは意味を持たずにフォームを見せるものとなることが多くなり、

マイムと踊りが明確に区別されるようになりました。

 

バレエの中の踊りを絶対的な最高位に置いたプティパが

1903年にマリインスキー劇場を去った後は、

内容のドラマ性や筋の一貫性はさらに軽視されるようになり、

当時の特権的地位にあったプリマ・バレリーナ達は、

作品全体を考えず、自分の踊りを誇示する為に

作品(ヴァリエーション等)を変えることもありました。

 

そしてこの頃、異分野の芸術との交流が盛んになり、

ロシアの舞台芸術界には大きな変化が起こり始めました。

美術には絵画の第一線で活躍する画家達が参入し、

オペラを演劇の演出家が演出しました。

また、バレエで伴奏にすぎなかった音楽を、チャイコフスキーの登場以来、

一流の音楽家が担当するようになったのです。

 

マリインスキー劇場では1901年に

テリャコフスキーが帝室劇場総裁となってすぐ、

当時のロシア芸術の最先端を行く「芸術世界」派のアレクサンドル・ベヌアや

レオン・バクスト等、後に結成されるディアギレフ率いる「バレエ・リュス」

(ロシア・バレエ団)の初期公演の重要人物達が、帝室劇場の舞台装置や

衣装の製作に起用され、彼らに舞台美術家への道が開かれました。

 

当時、出版された雑誌「芸術世界」は、美術、文学、哲学、音楽、

舞台芸術などのあらゆる芸術ジャンルが取り上げられていました。

そのシンボリストたちは、ルネッサンスや古代の文化に見られる

あらゆる芸術の総合 ― 舞踊、音楽、言葉、絵画、建築、彫刻の融合を、

未来の芸術として求めていました。

 

ロシアバレエの歴史①

ロシアバレエの歴史②