スラヴ民族とロシア まとめ2

白鳥は「ロシア美女」のシンボル

ロシアの芸術について話す時は必ず白鳥がテーマとして話題に上ります。

白鳥というと先ず最初に、バレエの白鳥、チャイコフスキーの「白鳥の湖」や、

名バレリーナ、アンナ・パヴロワが舞っていたサン・サーンスの「瀕死の白鳥」が

頭に浮かんできます。

 

スラブ文化というのは「鳥の文化」であると言えるのかもしれません。

考古学者たちは黒海からバルト海にいたる広大な地域のいたるところで、

白鳥の馬車を発掘しています。

一例として、ポルタヴァ市の近くでは、大きさ2メートルの15羽の白鳥の絵が

描かれた紀元前6世紀の儀式用焚火台が発掘されています。

 

スラブ民族は「空」・「土地」・「水」の三つの世界に住む水鳥を最も好みました。

そして、神話的思考により音楽・詩・絵・おとぎ話などをつけ加えたのでした。

ロシア芸術には「鳥のテーマ」が沢山あります。

おとぎ話には、「鴈・白鳥」(гуси-лебеди)といった象徴的シンボルが

よく登場します。「鴈・白鳥」は冬になると、「雪」になって登場し、

春が来ると「雪」は「鴈・白鳥」に変わるのです。

別の人気のある主題は白鳥になる美女「白鳥の王女」です。

 

白鳥は「ロシア美女」のシンボルです。田舎の人々の話す会話の中では、

「白鳥」という言葉は「白い」とか「明るい」ということを意味します。

昔は、色白の顔で頬の赤い、セーベル(黒貂、クロテン)のような

黒い三日月形の眉毛の女性が美女だと考えられていました。

そのため、女性たちは皆顔に白粉をつけ、頬に赤いビーツの根(ボルシチで

お馴染みの西洋野菜)の液をつけて眉毛を炭で描いていたのです。

 

ロシア美女たちはバービー人形のようなほっそり瘠形ではなく、

背が高くて長い髪の毛をお下げに結っていました。

未婚の若い女性たちはお下げを一本、既婚の田舎女性たちはお下げを

二本を結って頭の上にのせていました。

 

一番重要なのは歩き方です。

女性たちは白鳥が泳ぐようにすべるようにしとやかに歩いていました。

そのような歩き方を「白鳥の歩み」と言います。

面白いのは、そのすべるようなしとやかな歩き方は生来の雅な歩きではなく、

ロシアの伝統的な服に原因があったのです。

女性たちは服に綿毛か毛皮(北国では!)の裏張りをした

とても重い服を着ていました。足の動きは長い服で隠れていました。

頭のかぶりものは締めて止まってはいなかったので、

頭から落ちないように女性たちは仕方なく体を真っすぐにして

しとやかに歩かざるをえなかったのです。

hakutyou

 

 

~ニューズマグ:タチヤナ・スニトコ より~

タチヤナ・スニトコ:東京大学研究員、

元ロシア・ロストフ・ナ・ドヌー経済大学教授

 

スラヴのいろは

日本の“いろは歌”のように、古代ロシアにも頭韻法的アルファベットの詩がありました。

Азъ Буки Веди . Глаголь Добро Есте ,

Живите Зело , Земля , И , Иже Како Люди ,

Мыслите Нашь Онъ Покои . Рцы Слово

Твердо – Укъ Фърътъ Херъ . Цы , Черве ,

Шта Ьра Юсь Яти

現代の言葉に翻訳すると次のようになります。

「私は文字を知った。言葉は「富」である。

地上に住んでいる人間は、一生懸命努力をして勤労に励み、

宇宙(世界)を理解せねばならない。真の言葉を言いなさい。

真の知識は神様から賜った知識である。宇宙(世界)の光(知恵)を理解しなさい。」

 

ロシア語では「アルファベット」はazbuka(アーズブカ)です。

現代のロシア文字は(А)アー、(Б)ベー、(В)ヴェーのように発音されています。

20世紀初頭まで、いずれの文字も(А) アーズ、(Б) ブーキ、(В)ヴェーヂ等の

元の名称と意味で記憶されていました。

古代スラブ語では、[az]は「私」を意味していました。

「ブルガリア語では“私”はazです」。“Buki”は「文字」を意味します。

 

昔の本の飾りの頭文字にも意味があります。[A]Аз(アーズ)はシムルグです。

巨大な伝説の、孔雀のような鳥で、犬の頭、ライオンの足がある。

ある本には人間の顔が描いてある。

シムルグは地上と天界のスラブの“いろは”結合を表わす。

又別の意味は太陽に関係するので“神々しい光”である。

(アーズ)という文字は「世界の源」も意味する。

 

[Б]Буки(ブーキ)は「文字」(複数)を意味をする。

世界の第二の場所のシンボルである。飾りは木、ガラス、動物でできている。

人間の姿は自然の中の人を表している。

 

[В]Веди(ヴェーヂ)は“知る”を意味する動詞ведити(ヴェーヂチ)の

過去完了形である。語源はサンスクリット語(梵語)である。

よく知られているように、ヴェーダ(サンスクリット語で「知識」を意味する)は

アジアが起源の経典の集大成である。それらはサンスクリット語の

最古のものであり、ヒンズー教のもっとも古い聖なる経典である。

スラブの“いろは”は日本の言霊の五十音の意味に少し似ていませんか。

(注)面白いのは、ロシア語のbukiもドイツ語のBuch(本)も、

起源は「ぶな」という木の名前です。(ロシア語:бук、ドイツ語:Buche。)

 

日本のいろは歌

いろは歌(いろはうた)は、全ての仮名の音を使って作られている歌で、

手習い歌の一つであり、七五調四句の今様(いまよう)形式になっています。

いろは歌の歴史は古く、「涅槃経」と言う仏教に関する本の

有名な下段の四句を和訳したものとされています。

それが、僧たちの手によって平安時代中期に確立しました。

その後、手習い歌として習字などで「かな」を習う際に、この歌が用いられたのです。

 

原文

読み方 (現代仮名遣いで)

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
いろはにおえど ちりぬるを
わがよたれそ つねならん
ういのおくやま きょうこえて
あさきゆめみじ えいもせず

 

意味

花は咲いても散ってしまう。

そんな世の中にずっと同じ姿で存在し続けるものなんてありえない。

「人生」という険しい山道を今日もまた1つ越えて

はかない夢は見たくないものだ、酔いもせずに。

 

解説

◇ 色は匂へど 散りぬるを

昔の人は花が咲くことを「色が匂ふ」と表現していました。だから、この文章は「花が咲いても散ってしまうのに」という意味です。

 

◇ 我が世誰そ 常ならむ

「我が世」は「私の住む世界」ですから、「この世の中に」という意味。「誰そ」は「何が~だろうか」という、疑問を表現する言葉。「常」はここでは「永遠に同じ姿のまま」という意味ですから、「誰そ常ならむ」は直訳すると「誰が永遠に同じ姿のままなのですか」という意味です。

でも現代でも、「1億円もする宝石なんて誰が買うんだ?」というと、誰が買うのか知りたいのではなく、「1億円もする宝石なんて買う人はいないだろう」という、強い否定と同じ意味を表わしますよね。それと同じで、「誰そ常ならむ」は、「永遠に同じ姿で居続けるものなんていないよ」と言っているのです。

 

◇ 有為の奥山 今日越えて

「有為」自体は「形あるものと形のないもの」、つまり「愛や憎しみといった形のないものまで含めてこの世に存在するすべてのもの」という意味ですが、「有為の奥山」というと、そんないろいろなものが渦巻く人生を比喩する言葉になります。「そんな険しい人生を、今日もまた1つ越えて」ぐらいの意味です。

 

◇ 浅き夢見じ 酔ひもせず

「浅き夢」は、眠りの浅い時に見る夢のことですが、そのぐらいあっという間に消えてしまう願望のことも指すようです。「浅き夢見じ」の「じ」は「~したくない」という意味なので、文章全体では酔ってもいないのに、そんなはかない夢は見たくないということです。

 

いろは歌を学ぶ

  • いろは歌は、どんなことを歌っているのか?
  • いろは歌の謎
  • 日新公いろは歌について : 「日新公いろは歌」とは、島津家中興の祖で、島津義弘の祖父でもある島津 忠良(ただよし)(号は日新斉・じっしんさい)が、5年余の歳月をかけ完成させたという薩摩藩の「郷中(ごちゅう)教育」の基本の精神となったとなったといわれる47首の歌です。義弘も多大な影響を受け、その後も薩摩武士、士道教育の教典となったこの「日新公いろは歌」は現代の私たちにも通じる多くの示唆を含んでいます。下記、一部抜粋。 

  • : いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし

⇒ 昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけでは、役に立たない。

実践、実行することがもっとも大事である。

  • : 楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高きいやしき

⇒ 立派な御殿に住んでいようと、粗末な小屋に住んでいようとも、

それで人間の価値は判断できない。心のあり方によってこそ真価が決まる。

  • : はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日と 学びをばせで

⇒ 明日のことは誰もわからない。勉学修行を明日に引き延ばし、

もし明日自分が死んだらどうするのか。今この時を大切にすべきだ。

  • : 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも やまとことのは

⇒ 自分は下手だと卑下して努力を怠ってはならない。

稽古を積めば少しづつ進歩して、遂には上手になれる。

ちりも積もれば山となる。継続は力なり。

  • : 知恵能は身につきぬれど荷にならず 人は重んじ はづるものなり

知恵や芸能は身につけても重荷にになるようなものでもない。

多くを習って身につけるべきだ。世の人はその人を見て尊敬し、

己の及ばない事を恥じるだろう。 

  • : 名を今に残し置ける人も人 こころも心 何かおとらん

⇒ 後世に名を残した偉人も、人であって我々と違いはない。

心も同じであるから我々とて及ばないということはない。

奮起して努力することが必要である。

  • : 楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし

⇒ 苦も楽も永久的な事ではなく、一時が過ぎれば跡形もない。

困難に耐えて世の為に身を粉にして尽くすべきだ。 後世に名声を残す事を心がけよ。 

  • : 万能も一心とあり事ふるに 身ばし頼むな 思案堪忍

⇒ ことわざに「万能一心」というのがある。 いかに万能に達するとも一心が

悪ければ役にたたない。 自分の才能に自慢めいた言動をしてはならない。

  • : 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜の空

⇒ 少し足りないぐらいを満足とすべし。月も満月の次の十六夜の月は欠け

始める。 足るを知って楽しむ心が大事である。禅の「吾唯足知」に通じる教訓。

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